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2007/11/30

蘇れ!メンズ・ファッション 日本人はズボン嫌い?

 欧米先進国にくらべると、日本のメンズ消費には大きな偏りがある。このことは前にも述べたが、人口1人当たりの消費量をみると、日本のスーツ消費は世界一。それとは逆にスラックス(ズボン)は先進国の中で最下位にランクされている。
 これはジーンズの消費からも伺える。アメリカ文化が好きな日本人も、ことジーンズに関しては別である。ジーンズの年間消費量をみるとアメリカの4分の1、EUとの比較でも半分にしかならない。その最大原因は、やはりアダルトの需要にある。ヤングにとっての必需品が、中年になると極端に売れなくなる。
 スラックスも同じで、ヤングにとってパンツ(スラックス)は、ファッションのキーアイテムである。ジーンズやチノパンツに代表されるように、パンツの優劣がファッションを決める、といってもいいぐらい、彼らはパンツに気をつかう。このあたりは靴も似ている。
 いわばアダルトのファッションが上半身重視型になるのに対して、ヤングは下半身重視型。ヤングはボトムスを中心にワードローブを組み立てる。トップスは安物のTシャツでも、パンツと靴はビシっと決める。これがヤングファッションの特徴である。
 それが証拠に、アダルトを対象にした百貨店のスラックス売り場は、ここ何十年も変わっていない。壁面にそなえられたハンガー。カジュアルスラックスを除けば、どの店も同じようなディスプレーで販売している。
 「スラックスの売れ行きは、バーゲンセールを除けばゴルフ売り場のほうが売れている」
 ある百貨店のバイヤーは、ゴルフスラックスより効率が悪い、と苦笑する。そのぐらい売れ足が鈍いアイテムなのである。
 たしかに上下揃いのスーツが売れれば、単品スラックスの売れ行きは鈍る。それとともに上半身のお洒落に気を使うアダルトにとって、スラックスは「はければいい……」商品ともいえる。
 だが、アダルトにスラックスが売れない理由は、ほかにもある。ここでも人為的要因が頭をもたげるのである。

2007/11/29

蘇れ!メンズ・ファッション   服の味を伝える

 メンズウエアは“微差”の集合体である。その微妙な味加減を無視すれば、メンズウエアの奥義は遠ざかってしまう。それが客ならともかく、プロである以上、この味を見極め、それを伝える知識は必須条件である。
 一般的にスーツの付加価値といえば、まずは表素材、いわゆる生地のグレードが優先される。だが、これは触れていれば自然に習得できる知識である。そして、次がディテールのつくり方である。以前から高級スーツには「お台場仕上げ」といって、見返しポケット(内ポケット)につける、独特な当て布の形状がある。
 また、最近では袖口の飾りボタンにボタンホールをつけた「本せっぱ仕様」が、やはり高級感の表現手段として増えている。さらに前身ごろを支える芯地には「毛芯」を用い、裏地には上等なアルパカを使う……といった高級仕様も多い。
 だが、これらは味をつくる要素の一つであって、これだけで高級品とはいえない。むしろ、それ以上に大事なのはフィット感であり、客の体形は千差万別である。その体形に服がフィットするかどうか。ここがポイントである。
 着ていて楽な服には、どのようなカッティングがほどこされ、どうつくられているのか。ここの見極めができなければ、どれだけ高額な商品であっても、それは欠陥品の押しつけになってしまう。
 ショルダーラインが美しくみえる方法とは、どんなものなのか。さらに上品なラペルと下品なラペルのちがいは、どこにあるのか。アームホールの形状、肩パッドのセッティング……などなど、着ごこちが良くて、しかも美しくみえる服の条件。これらの知識をちゃんと身につけることがプロの資質である。
 そして、これはテーラードウエアだけではない。ドレスシャツにしても、世界の一流品と呼ばれるブランドには、それなりの裏づけがある。つまり、メンズウエアとは“こだわり”が味をつくるものなのである。
 その味が、どれだけの男性から支持されているのか……。残念ながら、ここに欧米と日本の差がある。

2007/11/28

蘇れ!メンズ・ファッション  奥行きがメンズの魅力


 日本人の男性の7割近くが“ファッション音痴”である。しかも、その状態が放置されたままでいる、という話は前にも触れた。「これが先進国なのか……」と思えるほど、日本のメンズ・ファッション、それもアダルト向けのメンズ・ファッションは遅れている。先進国の中で、これだけファッションに無頓着な男性が多い国も珍しい。
 こうした状況を払拭するには、やはり消費者啓蒙が第一歩である。服を忘れたオトコたちに、もう一度ファッションの面白さを実感してもらう。そのためにやるべきことは沢山ある。そこでは妻のあてがいぶちを無意識に着てしまう、という状況も正さなければならない。
 そして、何より必要なのがメンズウエアならではの奥深さを伝えることである。男性向け商品には、この奥深さを武器にしたものが多い。いわゆる“こだわりの逸品”である。たしかに時代は、物的有用性から離れて感覚志向になりつつあるが、それでもこだわりの魅力がなくなったわけではない。
 例えば身近なところでいえば、ジーンズもそうである。14オンスのブルーデニムを使った「ファイブ・ポケット」のジーンズは、表面的には見分けがつかないほど、どのブランドも似ている。このあたりはテーラードウエアも同じである。
 しかし、ジーンズにはグレードを越えたエピソードが、数多く内包されている。単に値段の高低だけではなく、ブランドがもつストーリーや製法がファンを引きつける。力織機を使ったセルビッジ付のデニムがヒットしたり、ダメージ加工が話題になる。
 これらは、いずれも非価格競争の価値づくりである。そのままにしておけば、画一的な商品だけに価格競争に引き込まれてしまう。それでなくても最近は、相当の数がカテゴリーキラーに駆逐されている。
 そのことをみれば、テーラードウエア、それもスーツの過半がロードサイド型専門店に支配されている状況は、むしろ当然の成り行きといえる。ブランド・イメージやプレステージだけでの価値づくりは脆弱である。
 テーラードウエアの魅力は、簡単には語り尽くせないほど多い。その魅力をコミュニケートしないで、抽象的な付加価値で押し切ろうとする。これではファンは増えていかない。

2007/11/26

蘇れ!メンズ・ファッション  中高年のハレとケ


 時代がカジュアル化に向かっているのは、メンズ・ファッションも同じである。そして、そのカジュアル化は、かぎりなく「普段着」に近づいている。もっといえば、ファッションにおける「ハレとケ」が、年とともに接近もしくは逆転している、というのが最近の傾向である。
 これはファッションだけにかぎらない。食生活においても数十年前だったら、来客のもてなしは店屋物、というのが一般的だった。気心知れた間柄ならともかく、客人の食事に手料理を出すのは非礼と思われた。それが最近は、客のもてなしは手料理のほうが厚遇になる。
 服装においても同じで以前は、子供の外出着は「余所行き」といわれ、普段着より上等なものを着せられた。「一張羅」と同じように、この晴れ着で外出した。いまや晴れ着といえばキモノになるが、1960年代までは余所行きと一張羅という晴れ着が、洋服の世界にも存在した。
 これが、かつてのドレスコード(服装規範)である。しかし、時代が豊かになるにつれ、こうした風習が薄れてきた。そして、今日では普段着のほうがお洒落にみえる、という時代に様変わりしつつある。
 だが、若い世代を除けばメンズ・カジュアルは、相変わらずハレとケが二極分化したままの状態が続いている。中高年用の普段着といえば、商品そのものがチープになってしまい、値段の安さだけがクローズアップされる。それとは逆に、値段の高いカジュアルウエアは、すべてがハイレベルになりすぎ、余所行きのカジュアルが目立つ。中高年向を対象とした普段着感覚のカジュアルウエアが少ない
 もともとドレスコードが強くはたらくメンズウエアは、ともすればフォーマル志向になりがちである。仕事用のビジネスウエアが優先され、目的がはっきりしないカジュアルウエアは二の次になってしまう。その結果、“余所行きカジュアル”(ハレのカジュアル)が増えてしまう。
 だが、人間がリラックスできるのは普段着である。その普段着で、どれだけの趣味性が表現できるか……。晴れがましいカジュアルウエアもいいが、その一方で本当にくだけたカジュアルウエアの提案、これが少なすぎる。

2007/11/24

蘇れ!メンズ・ファッション ミリメーター・チェンジを広める

 「男服と女服のちがいは?……」と聞かれて即座に説明できる人が、どれだけいるだろう。もちろん、アイテムによる男女の性差はたくさんある。当り前のことだが、スカートやワンピースにはメンズ仕様がない。だが、それがテーラードやシャツ、パンツになれば、ディテールの多くは共通部分のほうが多い。
 このあたりについて、あるマーチャンダイザーは、こうした見解を示す。
 「そう、男女で決定的にちがうのは、変化の大きさでしょう。ショルダーやラペルなどのつくりで、メンズウエアはミリ単位の違いが表情変化につながる。これをレディスウエアに当てはめれば、センチ単位の違い、ということになる。そのぐらいメンズウエアには精密性が要求される」
 テーラードやシャツにとって「衿」の出来栄えは商品価値につながってしまう。わずか数ミリの違いで上品になったり、下品になったりする。これが“微差の価値”といわれる所以である。
 とくにテーラードのラペルは、幅の微差もさることながら、ゴージ位置の高さ、開きの角度、上衿の寝かせ具合……といったように、この出来、不出来でジャケットの優劣が決まってしまう。このあたりはシャツの襟も同じで、パンツにしてもカッティングの微差が生命線となる。
 つまり、メンズウエアは“ミリの決死圏”への対応力が不可欠になる、ということで、この判別がつかなければテイストがつくれない。
 一般的に定番商品というと、デザインのリピートが多いとみられがちだが、話題のブランドはミリメーター・チェンジで味付けを変えている。ちょっと目には同じに見えても、シルエットやディテールがミリ単位で修正されている。
 とはいえ、ファッションの価値観は精密性だけでは決まらない。時流にあったイメージや雰囲気を、どのようにして組み立てるか。その過程でミリの微差が求められる。

2007/11/22

蘇れ!メンズ・ファッション  テイストを極める


 メンズ・ファッションは、レディスにくらべると画一性が強い。その代表例がテーラードウエアで、ブランドネームを外したジャケットを“テイスティング”できる人は、業界人といえども稀である。そのぐらい似て非なるアイテムが多い。
 これはテーラードだけにかぎらない、シャツにしてもパンツにしても、メンズウエアは大同小異が基本。ジーンズのファイブポケット・モデルにいたっては、よほどのマニアでないかぎり、ブランド特性を見抜くのは不可能である。
 だが、それがメンズウエアの魅力を支えている、というのも事実である。スポーツに例えれば、レディスは自由演技に似ており、それに対してメンズは規定演技に近い。決められた条件の中で個人技を競うのがメンズウエアの特徴で、その技に消費者は一喜一憂する。
 イタリアやフランスには、いまだに既製服をハンドメードでつくるブランドが存在する。マシンメードでは表現できない微妙なテイストやフィット感にこだわり、職人技での物づくりを続けている。この状況は服づくりというより、伝統工芸の世界である。
 日本のメンズウエア市場をみていて残念に思うのは、こうした技を求める客が少ないこと。高級ブランドには興味をもっても、身体でテイストを実感できる男性が一握りしかいない。これが成熟社会におけるメンズウエアの実情なのである。
 食の世界では、究極のラーメンや幻の蕎麦が話題になり、ファッションには無頓着な中高年男性までがテイスト(味覚)に反応する。食文化が成熟化しつつあるのに、衣文化が発展途上のまま、という状況は払拭しなければならない。
 メンズウエアは“微差”の世界である。わずか数ミリの違いが、服の価値を決定づけてしまう。だが、この微差が分からなかったら、どうだろう。ブランドや価格に振り回され、服の本質が分からない日本。ここに欧米とのギャップがある。

2007/11/21

蘇れ!メンズ・ファッション  中高年男性に買わせる

 独身時代には自分で買っていた衣服を、結婚すると妻に買わせる。そんな習慣が日本だけにある、というのもおかしな話だが、これが既製服化とともに自然発生したとは考えにくい。そこには何らかのきっかけがあったはずだからである。
 では、その原因が業界にではなく、女性たちがいつの間にか始めていた、と仮定してみよう。だが、それでも人為説は否めない。メンズアパレル業界が促したことではない、としても、女性が代理で買っていくことを黙認していたことは事実である。
 生活とは学習を反復することによって向上するものである。消費も同じで、人々は消費を繰り返し、行っていくうちに練達する。したがって、この消費行為をやめてしまえば、その能力は停止したままか、低下していく。
 何でもそうだが、ビジターに不安はつきものである。消費もビジター時代は、売り場そのものに抵抗を感じてしまう。最初から物怖じもしないで買える、というのは稀で、ふつうは憶してしまう。しかも、購入したら、こんどは周囲の反応が不安になる。「こんな服を着て大丈夫か…」。
 日本のメンズ・ファッションでいえば、こんなビジターばかりで消費が支えられている。中高年男性の3分の2がビジターである。こうした状況を放置した業界の責任は重い。
 このビジターを“グルメ”に変えていくには、一刻も早く「自分の服を人任せにしない」という趣旨のキャンペーンを打ち出していく。着せ換え人間にパーソナリティはない、と訴えていくべきである。
 あるとき、石津謙介氏は財界の依頼で、財界の奥方に向けて講演をした。そのタイトルが「オンナは男の服に口を出すな」だった。その日のスケジュールも把握しないで、身支度をするのはナンセンスである。コーディネートは、どんな人に会い、どんな会議があるのか、そのオケージョンに合わせて行うべきてある。そんな内容だったという。
 この話は、裏を返せば「オトコは、自分で身支度せよ!」ということになる。

2007/11/20

蘇れ!メンズ・ファッション  人為的な男女格差


 こういうと反論を招きそうだが、日本の中高年男性に“ファッション音痴”が多いのは、メンズアパレル業界だけとは言わないが、少なくともファッション産業が正しく“誘導”してこなかったため、と思えてならない。つまり、この状況は自然発生的に生まれたものではない、ということである。
 欧米にくらべれば、電撃的なスピードで成長を遂げた日本のファッションビジネスは、一極集中を繰り返しながら発展し、今日にいたっている。アイビールックが流行するとヤングファッションに群がり、ワンポイントマークがブームになると、みんながポロシャツに集中する。こうした売れ筋追随の体質が市場拡大の原動力になった。
 そうした追随体質でいえば、メンズウエアを女性が購入する、という消費行動も同じである。女性にメンズウエアを買わせるように仕向けたのも、業界の追随体質と無縁でない。オーダー全盛の時代には、中高年層といえども、衣服の購入は自分で決めていた。ところが既製服化が進むにしたがい、女性の代理購入が漸増し、シャツ、ネクタイ、ジャケット……といったように、年ごとに購入アイテムが広がった。ネクタイにいたっては消費の7割が、またドレスシャツも6割以上が女性に買われている、という。
 はっきりしたデータはないが、40歳以上の妻帯者が「自身で衣服を購入する」比率は30%に満たないのではないか。つまり、3人に2人が女性の代理購入に依存している、というのが筆者の見方である。業界人の中には「もっと代理購入が多い」という意見もある。
 では欧米は、どうだろう。米国の大手調査会社がカジュアル・フライデーに関するアンケートを行った中で、「衣服は自分で買う」と回答した男性が6割を越えた。おそらく、これが欧米の平均値であり、欧米にはメンズウエアを妻に買わせる習慣がない。そう思うほうが自然である。
 この代理購入が人為的である、という根拠は、既製服化が浸透した70年代にさかのぼる。この頃から女性のアパレル消費が急上昇する。それにともない百貨店の婦人服売場が活況を呈する。そこで買いにきた女性客に関連販売を勧める。「ご主人のものも……」というアプローチが発端ではないか、と類推するのだが……。

2007/11/19

蘇れ!メンズ・ファッション  どう掘り起こす、潜在需要


 結論からいえば、日本のアパレル消費は量的限界に達したかもしれないが、ことメンズウエアに関していえば、少なくとも1兆円やそこらの“埋蔵金”が眠っている。そう思ってもいい。その潜在需要を掘り起こすためには、従来通りの手法では無理があり、何か新しい施策を講じなければならない。
 まず、潜在需要の根拠についてだが、すでに述べてきたように、日本のアパレル消費はレディスウエアに偏り過ぎている。その最大原因は、日本の中高年男性の消費が、あまりにも脆弱すぎる、ということで、ここを改善すれば、かなりの掘り起こしが可能となる。中高年男性のファッション意識を変える。ここがポイントである。
 一例をあげれば以前、女性の間で大ブレイクしたGジャンだが、ついこの間まではジーンズがホットアイテムとなっていた。ジーンズに関するムックが評判を呼び、高値のビンテージ・ジーンズが良く売れた。これだけの現象をみれば、日本人はジーンズが好きな民族といえる。
 しかし、日本のジーンズ市場の過去を振り返ってみれば、ジーンズが好きなのはヤング世代にかぎられる。欧米先進国のジーンズ消費とくらべると、アメリカの4分の1、EU諸国とは2分の1の水準が日本の実力なのである。
 ヨーロッパとは比べようがないほど多くのアメリカ文化の影響を受け、食文化やエンターテイメントでも抵抗なくアメリカを受け入れる日本人が、EUの半分しかジーンズを買っていない、というのも不思議な話である。そう、ここでも消費にブレーキをかけているのが中高年世代で、日本では年をとるにしたがいジーンズから遠ざかっていく。
 こうした現象はジーンズにかぎらない。メンズ・ファッションでいえば、仕事用のスーツはともかく、アダルト向けのカジュアルウエアで「ブーム」をつくるのは至難な技である。それもこれも原因は、やはり中高年男性のファッション意識であり、これが余りにも低すぎる。これをどのように変えていくか、ここが課題の第一歩である。

2007/11/18

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 神話化した御三家(2)


 最近でこそ、ファッションのメッカのようにいわれる原宿も、ビームスが出店した当時は、店舗もまばらで人通りの少ない街だった。ラフォーレ原宿がオープンしたのは78年のことで、賑わっていたのは明治通りと表参道が交差するエリアぐらい。そこから300mも離れたビームスは、まさに「裏原宿」というロケーションだった。しかも、売り場は20平方m足らずで、以前が八百屋の土地だった、いうのも裏原宿らしい。
 その発端は、ダンボールを主力にした紙の会社。ここが親会社となるのだが、かつてから消費者と触れ合うビジネスを考えていた。資材となる紙では小売業がむずかしい。直接お客と接し、喜んでもらえるビジネスはないのだろうか……。そんな思いがコラボレーションに発展した。
 そのとき相談を受けたのが現在、UAの社長に就く重松理さんである。重松さんもファッションビジネスにかかわりながら、現状には不満を抱いていた。もっと味のある服があるはず……。世界で一級品といわれるファッションを揃えた店、そんな気持ちが開花した。有名ブランドでなくても一級品は存在する。こうしてビームスは誕生する。
 さらに重松さんは、ビームスから独立してUAを設立するのだが、この3社が神話化するのは“こだわり”の強さである。一見するとベーシックにみえながらも、見る人がみれば、納得するこだわり。これはインポートビジネスで培った、リスクがもたらす技ともいえる。
 まだ、マイナーとしか見られなかったシップスとビームスは、どちらもアメリカン・カジュアルから出発した。その元祖ともいわれたヴァン・ヂャケットが倒産し、その後、両社がクローズアップされ、メジャーの地位を固める、というのも70年代を物語る業界絵図である。

2007/11/17

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 神話化した御三家(1)


 いまやメンズ・ファッションを越えて“注目の店”となっているのが、ビームス、シップス、ユナイテッドアローズ(UA)の3社である。かつてファッション誌がメンズウエアのブランド調査をしたら、これら3社がベスト10にランキングされ、デザイナーブランドに劣らない人気を証明した。
 このうち後発のUAはさておくとして、ビームスとシップスが誕生したのも70年代中期である。ともに共通しているのは、決して恵まれた立地とはいえないハンディキャップを抱え、自分たちのテーストを発掘し、厳しい取引条件のもとで商売を続けてきた点である。
 まず、シップスの例からいえば、同社は「ミウラ」の屋号で東京・上野のアメ横から出発した。いまでもそうだが、アメ横(アメ屋横丁)の雑多ぶりには、一種独特のものがある。
 まず、ファッション街で、あれだけ臭気が漂うところも珍しい。鮮魚を売る店の横でインポートファッションを扱う。ファッションビジネスの立地としては最悪かもしれない。そこにわずか10平方mの売り場、ここが同社の原点である。
 ここで同社がブレイクしたのは、思い切った輸入に着手したこと。当時、数千万円の予算をかけてアメリカに渡り、くまなくメーカーを回った。ここでは儲けより「珍しい」とか「面白い」が買いつけのポイントになった。もちろん、全品が完全買取りである。売れなければ大損で、店の存亡にもかかってくる。
 だが、これら輸入品が大ヒット。狭い店内は、あっという間に完売状態となり、近くの倉庫からバケツリレーのような搬入作業が続いた。
 その後、社名をシップスに換え、各地に大型店をかまえる同社だが、経営の原点は同時と変わらない。他店にない商品を調達し、完全買取りで完全消化をめざす。輸入品でもオリジナリティを維持するため、見本市や展示会での発注は皆無に近い。バイヤーたちは、嗅覚と足をつかって時代商品を探し回っている。

2007/11/16

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 大きな隙間

変遷 大きな隙間

 ファッションビジネスは“隙間のビジネス”である。社会が移り変わる中で、新しい概念を創出し、これをビジネスにつなげ、進化してきた。新旧の概念がつくる狭間に、新しい発想が生まれる。これはビジネスでも同じで、隙間の発見こそが生命線といえる。
 1970年代は、日本人のライフスタイルが大きく転換した時代である。そこには幾つもの隙間が生まれた。ファストフード、ファミリーレストラン、コンビニエンスストア、宅配便……ファッションの世界では、DCブランドが感性時代の到来を告げ、大躍進を遂げた。
 そして、メンズ・ファッションにとって同じく画期的なビジネスが、76年に産声をあげていた。広島県下でローカルネットを広げていた青山商事が、東広島に出店したロードサイド店舗が、それである。
 アメリカ視察でモータリゼーションの勢いを目の当たりにした青山五郎社長は、帰国するとマイカー利用の郊外型店舗の計画に着手した。幹線道路沿いの立地に、広くとった駐車場、商品は流通合理化によって低価格で販売する。メンズウエアにおけるカテゴリーキラーを、新たな戦略にすえたのである。
 もちろん、同社が低価格だけの戦略にこだわったのなら、ここまでの成功は得られなかったはずである。すでにROCや一色、ホラヤ、スリーエムといったディスカウント型のメンズ専門店が、全国各地で勢力を伸ばし、メンズスーツにとって低価格は珍しくなくなっていた。
 そこにロードサイドという立地と、大型店舗による大量販売がヒットした。扱い商品をスーツに絞り、徹底した流通合理化によって価格を下げる。商店街にある狭苦しいメンズ専門店にはない、広々とした売り場はファミリーレストランに似ている。
 このロートサイド型専門店がスーツビジネスの価格破壊を起こすと、その後はジーンズやカジュアルウエアに飛び火した。ロードサイドに、これだけ大きなビジネスチャンスがあるとは、誰も予測しなかった。

2007/11/15

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 レディスウエアの影響

 DCブランドは、メンズ・ファッションにも時代の変節をもたらした。その一つは感性消費を促進したことで、それまでの機能や品質という「物的有用性」から、デザインやイメージといった「感覚有用性」がクローズアップされた。
 そして、もう一つの変節が“男女の壁”である。ファッションの歴史は、女性の男服志向にあるといわれ、スラックスやテーラードウエアがそうであるように、男服が女服に与えた影響は大きい。だが、その逆は、ごく稀なケースを除くと、きわめて少ない。
 同じようにビジネスでも、メンズアパレルからレディスアパレルに広げることはあっても、その逆は少ないアパレル企業にかぎらず、小売店でも同様なことがいえる。レディス専門店のメンズ業態が成功する確率は、かなり低い。
 女性は、シャツなどの前立てが左上前(男前)であっても気にしないが、男性にとっての右上前(女前)は厳禁である。もし、スラックスの前立てが逆だったら、ほとんどの男性はギブアップとなるはず。つまり、女性は男服を着ることができても、男性に女服は不向きなのである。もちろん、こうした機能性だけでなく、心理面での要素も大きい。
 そんな男女の壁も、DCブランドは見事なまでに粉砕した。それが証拠に80年代を越えたあたりから「〇〇〇オム」とか「〇〇〇メン」というブランドが急増。レディス向けにつくられたブランドのメンズ版が成功しはじめたのである。
 物的有用性が強くはたらいた時代には成功しなかったレディスアパレルの男服が、感覚有用性が浮上すると状況が一変。服の構造でも、ソフトスーツなどはレディスの影響を受けた産物といえる。女性が求めた軽さと柔らかさが、メンズスーツに波及した。
 最近のファッションでは「ジェンダーレス」という言葉が頻繁に使われるが、その端緒となったのはDCブランド、という見方もできる。

2007/11/12

蘇れ!メンズ・ファッション   変遷 理性消費から感性消費へ

 アパレル産業にとって75年からの5年間は、手探りの状態がしいられた。繊維ファッション情報センターの調べによれば、1960年代から75年まで婦人服の消費は、年率2ケタの伸びで拡大した。こうした高度成長が75年から80年にかけて、伸長率は1ケタに落ち込むのである。
 そんな状況の中で花咲とヴァンが倒産するわけだが、さらにメンズアパレル業界に追い討ちをかけるように、79年には「東の老舗」といわれた中央繊維興業(セントラル)が頓挫した。周知のようにメンズスーツを扱うアパレル企業は、大阪・谷町に集中しているが、同社は数少ない東京出身のメンズアパレル企業で、社長の丸山秀人氏は東京紳士服工業組合の理事長に就いていた。それが倒産した。
 メンズアパレル業界だけでなく、70年代後半になってからの状況は、アパレル産業にとって未見の逆風が吹き込んだ。足早に進行する消費変化に、企業は戸惑うばかりで、リスクを嫌ってブランドは小型化。もはや、大きく生んで育てることは無理、多様化消費にそなえるためには、小規模分散型が最適、との考えが支配した。
 このように多くの企業が自信喪失に陥っていた77年、丸井は度肝を抜くリニューアルを敢行した。東京・新宿にあるヤング館を全面改装し、そこにDCブランドを勢揃いさせたのである。
 70年代になってDCブランドの誕生が増えたことは、前にも触れた。だが、百貨店や専門店の反応は冷ややかで、コンセプトやターゲット、オケージョンが見えにくく、感性に訴えただけのDCブランドは、バイヤーを困惑させるだけだった。その結果、多くの小売業がDC導入に躊躇した。
 そんな状況を察知したのか、ヤング戦略を基本にすえた丸井は、思い切って売り場をDCブランドに開放した。これが理性消費からの脱皮である。同社は感性消費をアピールすることで、若者の支持をとりつけた。ちなみに、その翌年に同社は「いま、多感期!」をキャッチコピーに、感性消費を大々的に訴求するのである。

2007/11/11

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 リーダーの蹉跌


 ファッションビジネスにとって70年代は、成熟化と構造不況が同時進行した。消費の視点でみれば「量から質」に移行した70年代は、ブランドビジネスが開化し、ライセンス提携がブームとなるなど、消費の個性化・多様化が頭をもたげた。
 その一方で、産業界はオイルショックがもたらす景気後退によって、70年代の後半になると大型倒産が相次いだ。それとともに繊維産業では、日米繊維協定にともなう対米輸出の減少が、繊維産地に大きな影響を与えた。
 そのことはデータをみると明らかになる。繊維産業が全産業に占めるシェアを、分野別にみてみると、事業所数は1970年の22%が80年には20%に減少。また、出荷額も9%が6%に、輸出にいたっては12%だったものが5%に急減している。
 そして、消費支出に占めるアパレル消費(履物含む)の割合も、9.3%から7.5%に減少。それも75年からの5年間の落ち込みが激しく、75年の9%が7.5%にまで急落した。
 そうした中、アパレル業界に戦慄が走った。レディスアパレルの雄といわれた花咲が倒産すると、この後を追うようにヴァン・ヂャケットも経営が行き詰まってしまった。いずれも78年のことである。なかでもVANの倒産は、一般紙が社会面のトップで扱うほどの衝撃だった。
 アイビーファッションで一世を風靡した同社だが、70年代に入ると積極的な多角化戦略を打ち出し、ライフスタイル・ビジネスのリーダーとして注目を集めた。生活関連分野への広がりを持たせるために、食器をベースにした「オレンジハウス」、観葉植物を扱う「グリーンハウス」、飲食では「スコッチハウス」、エンターテイメントとしては「VAN99ホール」……といったぐあい。
 また、ファッション分野でも、ジーンズで「ラングラージャパン」、専門店では「ショップ・エンド・ショップス」などを設立し、総合アパレル企業をめざしていた。MD面ではトラッドの「VAN」「Kent」に加えて「シーン」「ニブリック」「ミスターヴァン」を発売し、さらにはPBも拡充した。
 その先進企業が、アパレル産業では未曾有の負債を抱えて倒産した。時代の節目を象徴する出来事である。

【全産業に占める繊維産業のシェア】
        1970年  75年  80年
 事業所数  22%   21%   20%
 雇用数   15%   14%   13%
 出荷額    9%    7%    6%
 輸出額   13%    7%    6%
 輸入額    7%    5%    4%

2007/11/10

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 トラッドに新潮流

 日本でメンズ・ファッションの基本となったのは「トラッド」である。1950年代に石津謙介氏がアイビー・モデルを提唱し、これが爆発的なブームをつくり、既製服産業に弾みをつけたことは前にも触れた。
 このアメリカン・トラディショナル・モデル(トラッド)が、日本のメンズ・ファッションの原形になった。その後、日本ではトラッドとヨーロピアンが周期的な流行を繰り返していくが、デザインだけでなく、トータル・コーディネートというウエアリングを含めて、日本の原点をつくったのはトラッド・ファッションである。
 そのトラッドが70年代になると、大きく方向を変えるのである。それまでの直線的なシルエットから、ウェストをシェープするなど、丸みを帯びたデザインに移行した。当時、ヴァン・ヂャケットでは、直線的なシルエットを「1型」と呼び、これに対して曲線的なモデルを「2型」として位置づけた。
 もともとトラッド・モデルは、アメリカではエスタブリッシュメント(支配層)が好むファッションとして知られ、その頂点に立っていたのがブルックス・ブラザーズだった。しかし、成功の証と言われたトラッドも時代の波にもまれ、トラッドをベースにしたコンテンポラリーなデザインが主流を占めるようになった。いわば「2型」は、そんな流れを反映したもので、それが後の「ソフト・トラッド」に発展していく。
 そうした中、日本のトラッド・ファッションに衝撃を与えたのがポール・スチュアートの“上陸”である。1975年、ニューヨークで話題の同社と三峰が業務提携を交わし、日本での店舗展開をはじめる、と発表したのである。それまで日本でトラッドの牙城を築いてきたのはヴァン・ヂャケットであり、同社の系列専門店のジョップ・エンド・ショップス、それにテイジン・メンズショップなどであった。
 そこに三峰は、アメリカ、それもニューヨークで“コンテンポラリーな店”と呼ばれるブランドを、売り場ごと持ち込んだ。ちなみに、この年にビームスとシップスが設立された、というのもトラッドの変容を示唆する出来事であり、その3年後にはラルフ・ローレンがライセンス契約によって発売される。

2007/11/09

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 世代交代の予兆

 ワンポイント・ブームが火つけ役となった“ブランドの時代”は、まさにファッションの価値観が量から質に移行したことを物語っている。メンズウエアの世界でいえば、それはテーラードウエアにおける“既製服の時代”と符号している。
 さらにいえば、ファストフードのデビューに象徴されるように、70年代は日本人のライフスタイルが大きく変容した時代でもあった。
 それまで白い目でみられていたGパンが、ジーンズと呼ばれるようになったのも70年代である。団塊の世代が婚期を迎えると、「ニューファミリー」が市場ターゲットとして有望視され、この核商品としてジーンズがクローズアップされた。マイナーなファッションがメジャーに変わった。
 そんな時代にファッションビジネスには多くの「マイナー」が誕生した。その典型が東京・原宿に急増したマンションメーカーである。マンションの1室をオフィスにあてた、いまでいうインディーズが個性をアピールした。社名もふるっていて「一つ目小僧」「紫式部」……といったぐあい。こうした個性派が数多く生まれた。
 そうした中、いまや世界を代表するデザイナーも、この時期にデビューした。ダーバンが設立された70年にはビギと三宅デザイン事務所が、その翌年にはニコルとバツ。さらにワイズ、ジュンコ・コシノ、コム・デ・ギャルソン、メルローズ、スタジオV、ファイブフォックス、アトリエサブ……といったように、DCブランドの多くが70年代に設立された。
 もちろん、DCブランドがブームになるのは80年代になってからだから、このときの彼らはマイナー・グループ。まったく新しいカテゴリーによる服づくりに、多くの小売店は敬遠こそすれ、共鳴の手を差し延べる店はかぎられた

2007/11/08

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 74年に国内生産はピーク

 メンズアパレル業界にとって70年代は、目まぐるしい変化の連続となった。スーツの既製服化率が5割を越え、有名タレントを起用してのブランド時代が到来、専門店も本格的な多店舗化に乗り出した。だが、その一方で全国各地に安売り旋風が吹き荒れるなど、時代は戦国の様相を呈していた。
 ブランドの時代でいえば、60年代にヤング向けファッションを除けば、メンズウエアでバリューの強いブランドといえば、バーバリーやカルダンといった高級品にかぎられ、カジュアル分野ではマックレガーとマンシングウエアが双璧となっていた。そして、これらがワンポイント・ブームのきっかけをつくった。
 70年代を迎えたアパレル業界は、高度経済の波に乗って「量から質」に転換、ブランドのもつ魅力を大々的にアピールした。その典型がポロシャツで、胸にワンポイントマークをあしらった有名ブランドが一大ブームをつくるのである。そして、これがスポーツカジュアル・ブームの伏線となった。
 ちょうど、そんなときメンズアパレル業界は量的拡大の限界(?)を迎える。繊維産業構造改善事業協会(現中小企業基盤整備機構)がまとめた「衣料品生産実態調査」によると、メンズのアウターウエア(紳士外衣)の生産量は、1974年の1億3200万点がピークで、この年を境に減少を続けている。これは外衣だけでなく、中衣についても同じで、こちらも74年の1億3400万点が最高である。
 つまり、メンズウエアの国内生産は、既製服化率が半数を越えた2年後にピークとなってしまい、このときから海外生産品が増加しはじめた、ということになる。ちなみにレディスウエアの状況をみると、こちらのピークは78年で「戦後最大の不況」と言われた翌年のこと。メンズのほうが4年も早かった。
 さらに興味深いのが生産額のピーク時期で、メンズの生産額がピークに達するのは90年。じつに16年間も“量的減少・額的増加”を続けていたのである。

【生産量と生産額のピーク】
          数量              金額
 紳士外衣   1億3200万点(74年)   8000億円(90年)
 婦人外衣   2億2550万点(78年) 1兆2300億円(87年)
 紳士中衣   1億3400万点(74年)   2500億円(89年)
 婦人中衣     9340万点(79年)   2200億円(87年)
                  (資料:繊維ファッション情報センター)

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 74年に国内生産はピーク

 メンズアパレル業界にとって70年代は、目まぐるしい変化の連続となった。スーツの既製服化率が5割を越え、有名タレントを起用してのブランド時代が到来、専門店も本格的な多店舗化に乗り出した。だが、その一方で全国各地に安売り旋風が吹き荒れるなど、時代は戦国の様相を呈していた。
 ブランドの時代でいえば、60年代にヤング向けファッションを除けば、メンズウエアでバリューの強いブランドといえば、バーバリーやカルダンといった高級品にかぎられ、カジュアル分野ではマックレガーとマンシングウエアが双璧となっていた。そして、これらがワンポイント・ブームのきっかけをつくった。
 70年代を迎えたアパレル業界は、高度経済の波に乗って「量から質」に転換、ブランドのもつ魅力を大々的にアピールした。その典型がポロシャツで、胸にワンポイントマークをあしらった有名ブランドが一大ブームをつくるのである。そして、これがスポーツカジュアル・ブームの伏線となった。
 ちょうど、そんなときメンズアパレル業界は量的拡大の限界(?)を迎える。繊維産業構造改善事業協会(現中小企業基盤整備機構)がまとめた「衣料品生産実態調査」によると、メンズのアウターウエア(紳士外衣)の生産量は、1974年の1億3200万点がピークで、この年を境に減少を続けている。これは外衣だけでなく、中衣についても同じで、こちらも74年の1億3400万点が最高である。
 つまり、メンズウエアの国内生産は、既製服化率が半数を越えた2年後にピークとなってしまい、このときから海外生産品が増加しはじめた、ということになる。ちなみにレディスウエアの状況をみると、こちらのピークは78年で「戦後最大の不況」と言われた翌年のこと。メンズのほうが4年も早かった。
 さらに興味深いのが生産額のピーク時期で、メンズの生産額がピークに達するのは90年。じつに16年間も“量的減少・額的増加”を続けていたのである。

【生産量と生産額のピーク】
          数量              金額
 紳士外衣   1億3200万点(74年)    8000億円(90年)
 婦人外衣   2億2550万点(78年)  1兆2300億円(87年)
 紳士中衣   1億3400万点(74年)    2500億円(89年)
 婦人中衣     9340万点(79年)    2200億円(87年)
                  (資料:繊維ファッション情報センター)

2007/11/07

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 グローバルへの挑戦


 スーツの既製服化率が過半を占めるようになった70年代初頭の日本は、世界有数のアパレル輸出国だった。国連貿易統計によると、1970年のアパレル輸出ランキングは、イタリアが8億7000万㌦で1位、これに続くのが香港(7億㌦)で、そして3番目には日本(4億6000万㌦)がランクされていた。
 もちろん、ここでの“武器”は低コストであり、そのことはアメリカ向けに輸出された「ワンダラー(1㌦)ブラウス」の存在が物語っている。まだ固定相場(1㌦=360円)が続いた70年ぐらいまでは、値段の安いアパレル製品が輸出されていた。
 それが72年に交わされた日米繊維協定で対米輸出にブレーキがかかり、さらに73年の変動相場制移行にともない、円相場は260円に跳ねあがった。ここからアパレル輸出が激減し、日本は“輸入ランク”で上昇を続けるのである。
 そんな状況の中でダーバンはグローバル戦略を目指した。アダルト向けにトータル・コーディネートトを提唱し、アラン・ドロンを起用した広告戦略、売り場では“ハコ型”を採用するなど、国内では順風満帆のスタートを切ったダーバンが、次なる目標と掲げたのがヨーロッパへの進出だった。
 このグローバル化では、ビジネスの登竜門といわれるニューヨークを避け、ヨーロッパのそれもオランダからアプローチを開始した。メンズ・ファッションのルーツはヨーロッパであり、ここで認知してもらうためには、保守的な北欧から攻める。そうでなければ一過性の海外進出に終わってしまう。これが当時のコメントである。
 鈴屋がパリに直営店を出店したり、オンワード樫山がバスストップをオープンさせたりしてはいたが、メンズウエアでヨーロッパに出るケースは皆無に近い。しかも、ターゲットはパリでもなければロンドンでもない、北ヨーロッパから南進するという戦略を選んだ。
 これが後にIDD(インターナショナル・デビジョナル・ダーバン)という、ヨーロッパ法人に発展していくのだが、まだデザイナーですらパリデビューがかぎられた時期に、同社はグローバリゼーションに踏み出したのである。

2007/11/06

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 チェーン専門店の躍進


 日本で既製服が市民権を得たのは1960年代になってからだが、メンズのテーラードウエア、それもスーツが“既製服時代”を迎えるのは72年のことである。例えば、IWS(現ウールマーク・カンパニー)のデータによると、65年の仕立形態別の消費量は、既製服が36%で、注文服が51%、残りがイージーオーダーだった。
 それが72年になると、両者のシェアは50%と34%に逆転した。つまり、メンズスーツに限っていえば、この分野の既製服化は70年代になって加速するのである。
 このことはメンズ専門店の勢力バランスからも読み取れる。商業統計によると、62年の「洋服店」の店舗数は3万店。このときの「非製造洋服店」、いわゆる既製服を扱う小売店の店舗シェアは44%でしかない。それが半数に近づくのは80年代になってからである。
 前述のように60年代にヤング市場では、猛烈な勢いで既製服化が進行していたが、メンズ市場全体でいえば、既製服を扱う専門店は“少数派”にすぎなかった。その既製服が市場でメジャーになるのは、70年代に入ってからであり、ここからメンズ専門店の地殻変動が表面化する。
 そのときのチャネルリーダーが三峰であり、高久(現タカキュー)である。いずれも東京・新宿に拠点を置いたライバル店で、三峰は新宿に大型店舗をいくつもオープンさせ、一方の高久は全国チェーンの地歩を固めていた。
 当時、レディス専門店では鈴屋と三愛がチェーン化に乗り出すなど、日本の専門店がチェーンオペレーションを本格化したのが70年代である。メンズの世界では、単独でチェーン化がはかれない地方の専門店は、ポランタリーチェーンを組織化し、日本洋服チェーン(NYC)と日本洋服トップチェーン(TOP)が組織拡大をはかるなど、既製服時代を迎えたメンズ市場では、全国各地で新業態が誕生した。

2007/11/05

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 「軽く」のこだわり


 モノとイメージの両立…。今にして思えば、ダーバン(現レナウン)が目指したメンズウエアとは、クオリティに裏打ちされたグローバル・ブランドの確立だった。もはや昔日の話になりつつあるが、同社が誕生した翌年に、日本の広告界が仰天する“事件”が起こった。
 世界のスーパースターであるアラン・ドロンをダーバンが起用。その反響はファッション界にとどまらず、日本中の話題をさらった。その影響の強さは、その後、多くのメンズブランドの広告をみれば明らかで、刑事コロンボをはじめハリウッドスターの起用が相次ぎ、広告の世界に外タレ・ブームを呼び込んだ。
 ところが、こうした派手な広告戦略の裏で同社は、地道なモノづくりにも取り組んでいた。60年代までの既製服、それもメンズテーラードは、注文服時代と同じようにロンドンの製造技法を基本にした。しかし、もっと軽くて、着やすい服ができないものか、とニシキ時代に生産拠点としていた大阪・枚方工場では、連日のように試作がつくられた。
 いまでも同社のテーラードウエアは、一部のライセンス品を除けば、デザインの原形はイタリアのモデルに近い。英国がもつ重厚感より、イタリア特有の軽快感を優先させたためだが、今日では当り前になっている“ソフトスーツ”を、設立当初からの研究テーマにかかげていた。
 話は横道にそれるが、最近の中国生産に関して「テーラードが日本の水準になるには、まだ時間がかかる」という認識が,メンズアパレル業界に多い。ソーイングとちがってテーラリングは、生産設備の近代化だけではレベルアップしない。それには経験を積んだ技術者が必要になる、というのである。
 つまり、テーラードウエアとは、そのぐらいデリケートなものであり、「軽く」とか「ソフトに」という課題に応える技術は、言うほど簡単にすまない。とかくイメージが先行しがちなファッションだが、ことテーラードウエアに関していえば、モノの裏付けがなければ一級品はできない。そのことをダーバンは、設立当初から実践していたことになる。

2007/11/03

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 エポックに生まれた新業態


 1970年は、日本の消費社会が新局面を迎えた時代である。大阪万博が開かれた70年は、いろいろな分野で“ニューシーン”が発表され、これを契機に日本の消費社会は大きく様変わりした。
 飲食の世界でいえば、カップラーメンの登場も注目すべきことだが、それ以上に画期的だったのはファストフードの登場である。ケンタッキー・フライドチキンが大阪万博で紹介されると、その翌年にはマクドナルドがオープン。ここから日本の食生活は、ガラリと様相を変えていく。
 その年にファッションの世界でも、新たなビジネスが産声をあげた。それがレナウン・ニシキ、今日のダーバンである。アダルト向けのメンズ市場にトータル・コーディネートを持ち込み、それとともにマーケティングに基づくトータル・コーディネートがとられた。
 それまでのアダルト向けメンズウエアといえば、その多くは社名と同じブランドか、知名度の低い横文字を使うブランド、というのが一般的だった。そこにダーバンは、ブランド・イメージを強調したマーケティング戦略を打ち出した。まだ馴染みの薄かったマーチャンダイジングとマーケティングを両輪に、アダルト市場での業態開発に乗り出したのである。
 アダルト市場では、シャツやネクタイからテーラードをトータルに扱う企業が少なく、そこに同社はドレスラインをトータルに揃えた「ダーバン・ショップ」を想定「都会人、35歳」をコンセプトに、ヨーロッパのインフルエンスをアピールした。
 これに刺激されたかどうかは定かでないが、70年代に入るとメンズウエアのブランド戦略が活発になり、アパレル業界と百貨店を中心にした海外ブランドの導入が、まるで争奪戦のような盛り上がりをみせる。

2007/11/02

蘇れ!メンズ・ファッション 変遷 アダルト時代の幕開け

 メンズ・ファッションが熟成する70年代--。団塊の世代が熱狂したアイビーブームも、彼らが大人の仲間入りをすると、その勢力は次第に衰えていった。アメリカン・トラディショナル・モデルをベースにしたアイビー(トラッド)から、ファッション・トレンドがヨーロピアン・スタイルに変容、アクセントの強いデザインが望まれるようになった。
 そして、団塊の世代が20代の半ばに達した1970年、メンズアパレル業界に大きな衝撃が走った。大阪・谷町で「ナンバーシックス」と呼ばれたメンズアパレル企業のニシキとレナウンが合併し、アダルト市場では初めてのトータル・メンズアパレル企業が誕生した。
 アメリカでは、メンズウエアのグレードを「No2」から「No4」「No6」という呼称であらわし、そのトップグレードがナンバーシックス(No6)である。60年代頃までは、既製服のグレードをアピールするため、高級既製服を扱う企業が「No6メーカー」と呼ばれ、ニシキはその1社に位置づけられていた。
 一方のレナウンは、レディス分野ではトータル化をはかっていたものの、メンズウエアでは中軽衣料にとどまり、スーツを含めたトータル戦略が課題となっていた。レナウンにとっては未知のテーラード分野をニシキの経験に頼り、ニシキは手薄の中軽衣料をレナウンに依存する、という両社の思惑が一致。メンズアパレル業界では初めてとなる有力企業の合併が実現した。
 前述のように、ヤング向けブランドの多くは、すでにトータル・コーディネートが当り前になっていたが、アダルト分野では「洋服」と「洋品」の二極分化が続き、トータル戦略が遅々として進まずにいた。
 そうしたなかで生まれた「レナウン・ニシキ」は、すでに常態化していたヤングのトータル戦略を、アダルト市場に持ち込み、いわゆるニッチ市場の開発に注力した。ここでメンズアパレル業界は、既製服時代の第2ラウンドを迎えるのである。

2007/11/01

蘇えれ!メンズ・ファッション 変遷 早いメンズの技術導入


 学習といえば、アパレル業界もアメリカから多くのノウハウを学んだ。60年代に既製服が市民権を得たとはいえ、そこには問題が山積していた。その一つは、注文服にくらべ“安物”とみられがちだったイメージを、どう払拭していくかであり、そのためには品質を上げていかなければならない、というカベだった。
 それまでの注文服に対して、既製服がもつ特徴は、工業化による大量生産である。しかし、勃興したばかりのアパレル業界には大量生産技術がない。そのため、メンズアパレル業界が先陣を切る形で、アメリカからの技術導入が相次いで行われた。
 周知のように既製服生産が本格化するのは、欧米でも1950年代以後のことである。それまで軍服や制服に集中していた既製服の大量生産は、50年代後半からアメリカを中心に、急速に広がった。
 日本で海外ブランドとのライセンス提携が増えたのは60年代に、主に百貨店が有名デザイナーブランドを導入したのが端緒で、このときはレディスファッションが先行した。58年に大丸がディオールと提携、60年代に入ると高島屋のカルダン、西武百貨店のラピドス……といった具合である。
 しかし、こうした華やかさの陰で、メンズアパレル業界でも海外提携が活発に交わされた。こちらはアメリカのアパレルメーカーが対象で、今日風にいえば「ファクトリー・ブランド」が主力。それもテーラードウエアやシャツのメーカーが多く、その狙いは製造技術を導入することに向けられた。
 品質を落とさずに大量生産を可能にする。いまでは考えられないような話だが、安物のレッテルが貼られた当時の既製服業界にとって、これは緊要な課題だった。
 すでに当時のライセンスブランドは、その多くが国内市場から姿を消してしまったが、ここでもメンズアパレル業界が先行してアパレル生産の基礎を築いていた。

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