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2007/09/24

ファッションビジネスにおける『構造改革』

ファッションビジネスの「勝ち組」

 ファッションビジネスでも最近、「勝ち組」とか「負け組」という言葉が頻繁に使われるようになった。これは不況の中での優勝劣敗をあらわしたもので、日本経済をリードする都市銀行ですら「負け組」の烙印を押されている。長引く消費低迷に加えて消費者ニーズの多様化、それにデフレ現象が広がるファッション産業は、文字通り「業界総負け組」の様相を呈している。これまで何度も苦境に直面してきた産業ではあるが、これほどの厳しさを体験するのは初めてである。
 そこで、まずはファッションビジネスの「勝ち組」の共通点を探してみる。そうすると誰もが脳裏に浮かぶのは、あの「ユニクロ」の存在である。バブル経済が弾けて百貨店や量販店が販売不振に陥るのとは対照的に、同社は破竹の勢いで急成長を遂げた。そのことは同社の業績推移をみれば一目瞭然である。
 【ファースとリテーリングの業績推移】(単位億円・カッコ内は前年比%)
          売上高         経常利益 
 1997年     750(125)       55(122)
 1998年     830(110)       63(145)
 1999年     1110(134)       140(222)
 2000年     2290(206)       600(429)
 2001年     4000(175)      1000(167)
 97年からの4年間で売上高はじつに5倍強、また経常利益に至っては18倍に増加した。暖衣飽食といわれる時代に、まだこれだけの“隙間”が存在していた、ということになる。ところが、そのユニクロですら02年度の決算では下方修正を余儀なくされた。これもファッションビジネスの一面を物語っている。
 もう一つ、こうしたカテゴリーキラーと並んで注目されるのが、欧米の有名ブランドである。「ルイ・ヴィトン」や「グッチ」に代表されるスーパーブランドも、不況を吹き飛ばすような快進撃を続けている。東京・銀座のファッションストリートでは国産ブランドが“少数派”となり、原宿の表参道は欧米ブランドの出店ラッシュに沸いている。
 もちろん、ファッションビジネスにおける「勝ち組」は、これだけではない。これ以外の分野でも、リーズナブルプライスやライフスタイル提案などといったように、新しい業態を打ち出したところは、それなりの業績をあげている。
 つまり、ここ数年のファッションビジネスで明らかになったことは、これまでのビジネス手法に固執した企業やブランドが厳しい状況に立たされている、ということである。もっといえば、不況が続くなかにあっても、常に新鮮なビジネスを打ち出していけば、必ず消費者は反応する。かつて言われた「消費者の共鳴を得る」仕組みを、どう構築していくか、これが「勝ち負け」の分岐点となっている。

 様変わりした欧米ブランドのポジション

 欧米の有名ブランドといえば、これら欧米ブランドは、かつて“指導者”と“盟友”という役割を担い、日本のファッションビジネスを支えてきた。日本にアパレル産業が勃興したのは1960年代以後のことであるが、欧米ブランドは日本の援軍として貢献。欧米ブランドの存在がなかったら、日本は急成長を遂げられなかった。
 60年代といえば、日本のファッションビジネスの主役が注文服から既製服に移行しはじめた時代である。洋装文化の歴史が浅い日本にとっては、まず既製服の生産ノウハウを習得しなければならず、多くのアパレル企業がアメリカの有名ブランドとのライセンス契約を交わした。大衆消費が定着していたアメリカでは、すでにファッション商品の大量生産が行われており、ヨーロッパよりも大量生産に関するノウハウが蓄積されていた。この生産ノウハウが、既製服時代を迎えた日本には必要だった。
 一方この時期、百貨店でも海外有名ブランドとの提携が相次いだ。こちらはパリのオートクチュールが中心となり、そこでは百貨店のオリジナリティとストアイメージを高めるのが目的とされた。まだ「ファッション」という言葉が一般的でなかった時代に、百貨店は欧米ブランドの導入によってファッションの浸透をはかったのである。
 そして70年代になると欧米ブランドとの提携は急激な増加を示し、ブランド開発をはじめデザインやマーチャンダイジングなど、ファッションビジネスの付加価値づくりに不可欠な存在になった。60年代に既製服が浸透したファッションビジネスは、わずか10年で消費者ニーズが“量から質”に移行、ここでは知名度が高く、マーケティングやマーチャンダイジングで実績のある欧米ブランドの導入が必要となった。
 ところが最近、日本にとって指導者であり盟友だった欧米ブランドが一転、こんどは手強いライバルに変身しはじめた。そのことは、これら有名ブランドの出店状況が物語っている。東京の銀座や原宿でオープンラッシュに沸いているのは欧米ブランドばかりで、これまで百貨店を支えてきたブランドがライバルになってしまった。
 また、せっかく育てあげたスーパーブランドが、ライセンス契約を破棄して“独立”する状況も生まれている。その典型が鐘紡の「クリスチャン・ディオール」とデサントの「アディダス」である。ともにライセンス契約の解消によって、大黒柱のスーパーブランドを失ってしまった。ライセンスブランドを数多く扱う企業にとって、これは対岸の火事ではない。
 今日では「ジャパン社」と呼ばれる外資系ファッション企業が、100社を越えるほどの勢力になっている。その多くは、かつて日本からの要請によって対日進出をはかったブランドで、当初から対日戦略に力を注いだブランドは稀である。日本からの要請によって輸出したり、ライセンス契約を交したりするケースの方が多い。それが80年代になると手のひらを返したようにジャパン社を設立。ファッション市場が豊かになった日本では、ダイレクトにビジネスをしたほうが儲かる。それがジャパン社設立に拍車をかけた。

 輸入に偏り過ぎた日本のグローバル化

 一方、欧米ブランドが出たところで、日本のアパレル貿易をみてみよう。いまから30年近く前の貿易統計をみると、日本のアパレル輸出はイタリア、香港に次ぐ実績を誇っていた。1970年のアパレル輸出ランキングは、イタリア、香港、日本、フランス、西ドイツ、イギリス、ベルギー、アメリカ、韓国、台湾の順である。それが26年後には中国とトルコ、タイが大躍進を遂げ、ベルギーと日本が上位10ヵ国から転落してしまった。
 【アパレル輸出の推移】
     1970年          1996年
   ■イタリア        ■中国   ◎(躍進)
   ■香港          ■香港
   ■日本  ●(転落)   ■イタリア
   ■フランス        ■アメリカ
   ■西ドイツ        ■ドイツ
   ■イギリス        ■トルコ  ◎(躍進)
   ■ベルギー●(転落)   ■フランス
   ■アメリカ        ■イギリス
   ■韓国          ■タイ   ◎(躍進)
   ■台湾  ●(転落)   ■韓国
 先進国ではアメリカを除くと、ほとんどの国が順位を下げているが、それでも上位に残っている。それに対して日本はどうだろう。96年のデータによると、日本のアパレル輸出は5億㌦にすぎない。輸入が190億ドルだから、そこには38倍もの開きがある。
 世界最大のアパレル輸入国はアメリカで、その額は430億㌦に達する。だが、それでも輸出が75億㌦にのぼり、そこには6倍弱の開きしかない。アメリカに次いで輸入の多いドイツもしかりで、輸入の240億㌦に対して輸出は74億㌦。その差は3倍強である。それだけに日本の38倍は、まさに異常なケースである。
 この原因は日本の高度成長によるところが大きい。婦人服専門店でいえば1960年に1000億円に過ぎなかった販売額が、97年には6兆円に増加。わずか30年で60倍に膨み、こうした急激な国内消費の拡大が輸出マインドを抑制した。それに加えて1972年に締結された日米繊維協定も、日本の対米アパレル輸出にブレーキをかけた。

海外生産の増加と国内空洞化

 冒頭にも触れたように、日本のファッションビジネスで勝ち組に共通するのが、徹底した流通合理化によって実現した低価格戦略である。ユニクロは、まずジーンズの価格破壊を打ち出し、販売価格をそれまでの市場価格の半分に減額した。その戦略はジーンズだけにとどまらず、カジュアルウエア全般に及んだ。そして、それがフリースの爆発的なブームをつくり、前述のような急成長を遂げるのである。
 これと同じように「しまむら」も、アパレルの実用品分野で徹底的な流通合理化を行い、量販店を凌駕する低価格戦略を成功させた。さらにいえば、かつての勢いが薄れた紳士服のロードサイドショップも、新たな低価格業態を開発している。それが「ツープライス型ビジネス」と呼ばれる、扱い商品を二つの価格帯に固定した戦略である。スーツでいえば1万9000円と2万8000円、ドレスシャツは1900円と2900円の価格帯しか扱わない。これを2、30代のビジネスマン向けに打ち出すと大ヒット。メンズアパレル市場に新たな業態を構築した。
 このような低価格戦略を可能にしているのが、中国における生産である。人件費が日本の30分の1といわれる中国では、日本では考えられない低コストの生産ができ、いまでは大半の国産ブランドが中国での生産に依存している。
 【アパレル輸入(布帛製品)に占める中国】(単位は100万点、シェアと浸透率は%)
         輸入量   占有率    輸入浸透率
 1990年      231    56      45
 1995年      693    78      71
 2000年      1088    88      85
 このデータは、ニット製品を除いた布帛(織物)アパレル製品の輸入統計をまとめたものである。これをみると90年には2億点だった輸入量が、10年間で約5倍に膨れ上がり、輸入品に占める中国シェアが56%から88%に上昇、これに伴い輸入浸透率も85%に広がった。もはや国産製品の市場占有率は15%でしかなく、メード・イン・ジャパンが稀少な存在になってしまった。
 これによって深刻な状況に陥ったのが国内アパレル製造業である。ニットにしても布帛にしても、輸入急増の影響を受けて生存が危ぶまれる事態に陥ってしまった。例えば布帛アパレル製品を製造する縫製業(外衣のみ)をみると、事業所数で89年の1万9000が99年には1万1000に減少、10年間で42%の縫製工場が消えた。こうした傾向は、低価格戦略が目立つメンズウエアほど顕著で、2900あったメンズの工場が1400に減少、じつに52%が消失してしまった。

 ファッション産業が取り組む「構造改革」

 ファッションは“社会の写し絵”であるといわれるが、最近のファッションビジネスをみていると、まさに日本の社会情勢を凝縮した形である。欧米からは有名ブランドによって高級市場が浸食され、中国をはじめ周辺諸国からは低コスト攻勢に晒されている。しかも消費は、不況の影響で盛り上がらない。どれをとっても特効薬が見当たらず、それだけに事態は深刻である。
 この状況を乗り切っていくためには、小泉首相ではないが痛みの伴う構造改革を断行するしかない。それが証拠に最近は、ファッションビジネスの構造を「基盤の部分から変えていこう」という考えが少しずつ形になってきた。
 その一つがアパレル業界と百貨店業界による「FBA(ファッションビジネス・アーキテクチャ)」と呼ばれる、ビジネスモデルの共同プロシェクトである。これは日本百貨店協会と日本アパレル産業協会が合同の諮問機関をつくり、そこで検討されたビジネスモデルが昨年まとまった。
 その内容を分かりやすくいうと、ファッションビジネスにおける取引企業(百貨店とアパレル企業)が相互に予測情報や計画情報を共有し、コラボレーションによってサプライチェーン全体の最適化を実現しよう、というものである。さらに、このFBAでは取引形態にも触れ、「FBAビジネスモデル」による基本契約書を策定、この契約方法に沿った取り引きを推進するよう提言されている。
 ここ数年、日本では「SPA」(アパレル機能をもった小売り)が脚光を浴び、SPAに取り組む企業が小売業界だけでなく、アパレル業界にも増えている。しかし、このSPAも単に卸売りと小売りを合体しただけでは、大きな収穫は得られない。そこで重要になるのは、「マーケット・イン」を基本にしたビジネスモデルを実現することであり、それには店頭の動きが素早く供給者に伝達できるSCM(サプライチェーン・マネジメント)が必要になる。これを共同プロジェクトによって実践していこう、というのがFBAの狙いである。
 一方、窮地に追い込まれたアパレル製造業でも構造改革に取り組んでいる。日本アパレルソーイング工業組合連合会では、これまでの下請け体質から抜け出すため、新たな販路開拓を検討。そこでは「ファクトリーブティック」のような直営店構想もあるが、発注者に企画提案できる協業化に着手するなど、各地でさまざまな開発プロジェクトが打ち出されている。また、日本ニット工業組合連合会では、付加価値の高いニット製品を輸出していこう、という検討が重ねられている。
 こうした構造改革はアパレル産業だけではなく、テキスタイルの世界でも成果をあげている。その一つが「ジャパン・クリエーション(JC)」である。このイベントは、テキスタイル産地がオリジナリティやクオリティを高めるため、全国のテキスタイル産地が結集して行われているもので、賃加工が多い産地企業(機屋)にとっては唯一の“総合見本市”である。最初は出展に二の足を踏んでいた産地企業も、回を重ねるごとに個性表現が強まり、それにつれて入場者が増加している。

 ファッションビジネスの社会対応

 いまから20数年前、日本に「生活文化提案型産業」という概念が生まれた。それは、日本の繊維産業の中核が素材産業からアパレル産業に移った時代である。ちょうど高度成長経済に終止符が打たれ、急成長を続けてきたアパレル産業が減速、それとともにDCブランドが脚光を浴びはじめた時期である。
 これからの繊維産業は、人々の生活を豊かに導くのが使命であり、そのためには豊かな生活文化を提案し、それに基づいた商品を供給すべきである、というのが主旨である。欧米の流行に追随するだけでは本来のファッションビジネスが構築できない。そこでは素敵な生活を発見し、それを伝え、実践できる商品を供給する。この仕組みこそがファッションビジネスであり、それには生活文化提案型の産業を目指さなければならない、というのである。
 それから4半世紀を経過したいま、あらためて「生活文化提案」がクローズアップされている。もっといえばファッションビジネスが、どのように社会要請を受け入れ、これに対応していくか、というテーマが浮上した。
 例えばリサイクルも、その一つ。こういうと「大気汚染を出さないファッション商品が、なぜリサイクルなのか?」との疑問も生じるが、現実はアパレルリサイクルが緊急対策になっている。
 周知のように日本では廃棄物の処理能力が限界に達しつつある。このため産業も、ゴミの排出を減らし、そのゴミを再生し、循環型社会の構築に一定の役割を担う必要が生まれた。アパレル商品でいえば、1年間に家庭から排出される不用アパレルは100万㌧に達する。1着当たりの重量が数100㌘と換算すれば、この排出量は膨大な量になる。
 ところが日本でリサイクル処理される不用アパレルは、年間10万㌧余りに過ぎず、比率にして10%程度。アメリカでは30%以上にのぼり、ドイツにいたっては70%がリサイクルに回されている。それに比べれば日本の10%は、あまりに低い。これを何とか改善していこう、と発足したのが日本アパレル産業協会の「アパレルリサイクルシステム開発委員会」である。
 01年にスタートした同委員会では、すでに「リサイクル商品基準」のベースがつくられ、不用品の回収システムを含めた基本プランが策定されている。そして、この委員会の特徴は、繊維ファッション産業がアパレルリサイクルに結集した点であり、繊維屑を扱う故繊維業界も加われば、川上や川中、川下の業界など総勢40人もの専門家が参画している。
 また、社会対応ということでは「ユニバーサル・ファッション」も、ファッションビジネスが真剣に取り組まなければならない重要なテーマである。ビジネスを最優先に考えるならば、効率を優先した物づくりによって、商品供給していくのが正論である。その結果、大きな収益が見込める多数派の消費者には、溢れるほどのバラエティが提供される。しかし、そこから漏れた少数派の消費者にとっては、選べる商品が限定される。
 例えば身障者向けのファッション。まず、この人たちを対象にした売り場が少なく、商品のバラエティも限られ、それでいて価格が高い。それは身障者向けのビジネスが儲からないからで、その結果マーケットは小さくなる。同様なことはイレギュラーサイズの人たちにとってもいえ、標準サイズの人たちに比べると商品の選択幅は限定される。
 こうした状況を改善し、誰もがファッションを楽しめる市場環境をつくっていこう、というのがユニバーサル・ファッションの考え方である。これもリサイクルとは異なるが、成熟したファッションビジネスが取り組まなければならない社会対応である。
 このように、ファッションビジネスの21世紀は、これまでにない課題を抱えながらのスタートとなった。もちろん、だからといって“暗い未来”の幕開けでは、決してない。むしろファッションビジネスの将来は明るい展望に満ちている。その展望に向かう過程での調整期が現在である、と考えるべきである。
 その調整期にあって、ファッションビジネスを明るい方向に誘導するのは、やはり人材である。ファッションビジネスでは「創・工・商」が基本的な要素といわれ、この総合力が業界発展の原動力になる。そして、この基本要素を担っていくのが人材であり、その人材を高いレベルに引き上げるのが教育である。
 これまで記した事例は、ほんのわずかに過ぎず、日本のファッションビジネスが解決すべき課題は山積している。そして、それぞれの課題の領域も広い。それだけにファッション教育に寄せる期待は、かつてなく大きいものになった。

日本のジーンズ

日本の加工技術は世界のトップランナー

 ジーンズがアメリカで“発明”されたのは1860年代である。考えてみれば150年近くも経っていながら、基本的なデザインが変わらないというのもジーンズならではの神秘性といえる。そして、新品と古着が同じ価値観をもつ。いや、むしろビンテージ物になると、古着が新品の値段を凌駕してしまう。さらに年齢や性別はもとより貧富の差や民族のカベまで超越するファッションは、ジーンズを置いてほかにない。
 そんなジーンズが日本に入ってきたのは第二次世界大戦以後のことである。もちろん、それ以前にも紹介されてはいただろうが、大衆化されたのは戦後に輸入古着が市販されるようなってからである。つまり、日本におけるジーンズは、ワークウエアとしてのジーンズではなく、ヤング・ファッションのシンボルとして広まった。
 1960年代になると日本でもジーンズの国産化が始まるのだが、ここでもジーンズはファッション・アイテムとして位置づけられた。そのことを象徴しているのが、ジーンズを巡る賛否の嵐である。筆者が中学生だった60年代、校内では「ジーンズが不良化につながる」という父母と、これに反発する生徒が対立し、シンポジウムが開かれた。その後も女子大からジーンズを締め出す騒動が起きている。いずれもジーンズがワークウエアとして認識されていれば起こらなかった出来事である。
 「ジーンズ=ファッション」という構図が描かれたせいか、日本では早くから製品加工が開発された。いまでいうダメージ加工の発端となったストーン・ウォッシュは、世界にさきがけて日本が編み出した技術である。このストーン・ウォッシュが、その後の洗い加工につながるのだが、こうしたテイスト開発はデニム生地にも反映され、ジーンズに関して日本は、世界有数の加工先進国として注目されるようになった。ベーシックなワークウエアと先鋭的なファッション、この二つの側面をもつというのもジーンズならではの神秘性である。

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